ウルオのつぶやき

ウルオの日々の想いや不思議な話をゆる~くつぶやくブログです

パラレルワールド

 

人生山あり谷あり

色んな経験を経て人は成長してゆきます

沢山の感情や想いは魂の糧となり、世の中を観る視点を高めてくれます

 

どんなに辛く苦しい出来事も最終的にはどうにか乗り越えられる不思議

そして何かしらの収穫を得ながら問題を確実にクリアしていっている

 

過去の自分を振り返ると、本当によく頑張ってきたなと感心します

それはもう、子どもが奮闘する姿に目を細める親のような目線、、

 

いつからかこんな風に、過去の自分が別人格のように感じられるようになりまして

少し前までは、過去から現在まで全てが繋がっているような感覚を当たり前に持っていましたが、いつの間にか感じ方が変わっておりました

 

今感じるのは瞬間毎に別の自分が存在している感覚

それぞれがパラレルワールド

それぞれが別世界

過去の自分たちと今の私とは、繋がっているようで繋がっていないという感覚

表現するのが難しくうまく言葉に出来ないですが、過去に存在している無数の世界と、今私が体験して味わっているこの世界は、全く次元の違う世界なのではないかという感覚、、、

 

そんな風に感じてしまうのはやはり、この現実世界の方が魂にとっては『夢の世界』のようなものだという事を知ってしまっているからなのでしょうか

 

パラレルワールドはブクブク増える泡のように無数に増えては弾けて消えてを繰り返している

こんなにも重く生々しい現実世界は、本当は軽くて不安定な無数の泡の集まりで構成されているものなのかもしれない

 

人生の答え合わせ

 

他者に対して純粋に

力になりたいとか、助けたいとか思う気持ち

幸せを願う気持ち

喜びを分かち合う気持ち

応援する気持ち

愛する気持ち

優しく見守ろうとする気持ち

 

それらは結局、他者から自分へ向けて全て還ってくる

それを投げかけた本人からとは限らない

時空を超えて、色々とカタチを変えて、全てが自分のもとへと還ってくる

 

 

他者に対して悪意を持って

陥れようとする気持ち

奪おうとする気持ち

コントロールしようとする気持ち

不幸を願う気持ち

失敗を願う気持ち

憎しみの気持ち

恨みの気持ち

嫉妬の気持ち

 

それらは結局、他者から自分へ向けて全て還ってくる

それを投げかけた本人からとは限らない

時空を超えて、色々とカタチを変えて、全てが自分のもとへと還ってくる

 

 

自分の心の景色は、自分の世界の景色

無意識の思いにすら責任を持ち、責任を果たす

今目の前に広がる現状は、今まで自分がしてきたことに対する答え

 

あちらの世界に行ってきたはなし 

 

それは20代前半のある夜のこと

 

いつものようにベットに入り明かりを消して寝ようとしていた時、金縛りが起こる前のあのゾワーっとした感覚を感じました

金縛りは何度も経験していたので、その日も怖いながらも少し冷静に対処していたのだけれど、その日はいつもとは全然違っていて

寝室のドアが開き、黒い人影が入ってきたのが見えたのです

 

見えたと言っても金縛り中で、目は閉じていたので目で見ている訳ではなかったけれど、人影のサイズ感や感覚にリアリティーがあったので、生身の人間なのか?と思ったりもしました

イメージ的にはコナンに出てくる真っ黒な犯人のアレ

人の形は分かるんだけど、顔や身体など全てが真っ黒で、凹凸が一切感じられない不思議な影でした

 

しかしそこは一人暮らし中の古い一軒家

同居人などいない環境

霊的な何かも怖いけど、泥棒的な人間だったらそれはそれでヤバ過ぎる!!

私は色んな怖さでパニックになり、金縛りで動けないながらも力一杯もがきました

すると何故か両足だけがピーンと立ち上がって

そして突然その人影のいる方向から強めの風が自分に向かって凄い勢いで吹いてきたんです

 

次の瞬間、私は真っ暗な狭いトンネルのような所にいて、流されて落ちていました

感覚的には、結構な角度の真っ暗なウォータースライダーに仰向けで寝た状態で、頭から滑り落ちている感じ、、

もの凄いスピード感と、真っ暗過ぎて何が起こってるのか理解出来ない感と、一切抵抗出来ないされるがまま感、、

そりゃぁもう、もの凄い恐怖!

ただただ『ギャーー!!』と心の中で叫びながら流されてました

 

するとやがて明るい場所にポーンと飛び出しました

そして結構な高さのあるその場所から、その下にある大きくて深めの沼?のような所にドボン!とダイブしたんです

 

水の中に落ちる感覚や衝撃、周りに沢山の泡ができる感じなどが超絶リアルだったので、泳げない私はかなり焦りましたが、水の中は全然苦しくなくとても不思議でした

まず呼吸ができる?というか何の問題も無く、水温は絶妙に快適だし、水中なはずなのに濡れてる感じや重たい感覚が無くて、とにかく全然苦しくないんです

今にして思うと、それは霊体だったからなのかな?という気がします

そしてその沼はどうやら蓮の沼だったようで、水面に浮かんでから周りを見渡すと、蓮の花が沢山咲いていてとても綺麗でした

 

その後場面が変わり、私は小高い丘のような場所にいました

どこまでも広がる緑の丘と雲一つない青空、そんなロケーションに沢山の眩い光が溢れていました

パステル系のピンク、オレンジ、黄色、薄紫、などなど、とにかく沢山の光で溢れていました

その光は言葉で言い表せない程、今まで見たことがない程美しく、強く激しい光なんだけど、同時に優しくて温かい、、そんな光でした

そこに人の姿は一切見えず、しかし沢山の気配だけがありました

私は、その光たちは無数の魂たちなのではないかな?と理解しました

 

遠くには高い山も見えて、そこはより一層光り輝いていました

私は、高い山のその光は、更に高次の神的な存在のものなのだと理解しました

 

その場所は、まるで故郷のような懐かしさと安心感に満ちており、私は今まで味わったことの無い幸福感と安堵感を、ただただ味わっていました

 

………

 

ふと気がつくと私は真っ暗な部屋のベットで寝ていました

あんなに足がピーンとなったはずなのにお布団は一切乱れておらず、何事も無かったかのようでした

 

体験した者にしか分からない、夢とはとても思えないこの感覚、、

これは私に実際に起こった出来事なんだとすぐに確信しました

そしてあの場所が魂の故郷であり、本当の場所、いずれ帰る場所なんだということを理解しました

 

これが私の、あちらの世界に行ってきた体験です

 

実験のススメ

 

新しい何かと出会い好奇心が揺さぶられるとき、興味がそそられワクワクするとき、まずは情報収集から始まる

今の時代は便利になったもので、ネットで検索すれば沢山の情報が簡単に得られて大変便利だ

そうして得た情報を基に更に深く掘り下げたいと思ったら、関連の本などを購入してみる

本を読んでみて、それが自分に合っているか、その考え方に賛同できるか、それを自分の人生に取り入れたいかを感じ取り考える

 

何についても言えることだけど、どんなに良いものだと思っても『盲信』はしないこと

常にそれと自分との間に距離を置き、俯瞰して観察する立場でいることが大切

その時オススメなのが『実験』というスタンスだ

 

私は、新しい何かを自分に取り入れようとする際はいつも『実験』というスタンスで取り掛かるようにしている

ただそれだけの事で、常に観察者の冷静な目線を保つことができるようになる

そしてそれを取り入れた結果、何が変わったのかを冷静にチェックし判断することができるようになる

 

私の趣味嗜好からすると、その興味の大半はいわゆるスピ系と括られる少しあやしいとされがちなモノに偏りがちで、、

だからこそ、その言葉や内容だけを鵜呑みにするのではなく、自らの『実験』を通して体感した感覚を一番頼りにすることを心掛けている

それはつまり自分の感覚を信じることであり、それこそが『自信』を持つことに繋がっていくのだと思っている

 

やっていることは『実験』なので、違和感やつまらなさを感じたら途中でやめたっていいし、結果自分にとっていいモノだと思えたら続けたらいい

ただそれだけのシンプルさと軽さが、とても心地良くて気に入っている

 

私はこれまで沢山のことを『実験』してきた

そして本当に良いと思えるものだけを厳選して取り入れてきた

自分の感覚や判断を鈍らせない為にあえて『先生』という存在は作らずに、ほとんどはほぼ独学

独自の解釈と判断で、私だけの知恵や叡智を育てている

 

このように生きるようになってからは、外に答えを求めることをあまりしなくなった

答えは自分の中にある

自分を信じるとはそういうことなのかもしれない

 

便秘のこと

 

私の便秘歴は長い

 

その始まりは小学校入学だった気がする

私が小学生の頃のトイレと言えば、現在のような水洗式ではなく、ポットントイレと言われる汲み取り式のトイレが主流

暗くて怖くて近寄りがたく、ゆっくり排便しようと思えるような環境ではなく、気がつくと学校では大便はしないという自分ルールが出来上がっていた

 

そして社会人になってから私の便秘は更に悪化する

トイレへ行く為に席を立つことすら気を遣う程忙しい環境に、仕事中はトイレを我慢するのが当たり前になっていった

この頃は、とにかくトイレに行かずに済むようにと水分の摂取さえ控えたりしていた

そして我慢のし過ぎで便秘だけにとどまらず、膀胱炎も繰り返したりしていた

 

今にして思うと、なんて過酷な環境に自分を追い込んでいたことかと呆れてしまう

当時はそんな職場環境に自分を合わせようと必死で、自分の心の声に耳を傾けるどころか、外の世界にばかり目を向けて気を遣っていた

その時置き去りにされた私自身は、どれ程辛く悲しかっただろうか

便秘や膀胱炎という症状で、身体は限界のサインを出し続けていたのに、私はそれに寄り添ってあげるどころかもっと過酷な状況を与え続けていたのだ、、、

 

本当にどんな現実も自分が創っていたのだと気付いてからは、自分が自分の人生における一番の障害だったんだと思い知らされることとなった

 

便秘は今尚続いている

職場と働き方を変え、意識や考え方が変わり、自分に優しくできるようになった、今尚

とは言え状況は随分良くなっていて、今は条件付きの便秘といった感じに改善されてきている

 

それはとてと分かりやすくて『ストレスが多い時は出ない』というルールらしい

これは私の意思によるものではなくて、私の大腸の意思

大便を出すタイミングは私の大腸が意思とプライドを持って管理している、と言った印象なのだ

 

休みの日は面白い程スムーズに良い状態の便が出たりする

仕事の日の職場では便意があっても絶対出ないのに、帰宅した途端に出る!とかいうことが起こったりもする

そして、あまり無理したり緊張したりすることが多過ぎると、酷い便秘が発動する

その度に私は、私の大腸の強い意思を感じて感動すらしてしまう

 

昔の私は、各臓器の様々なな主張など決して聞き入ない、まるでブラック企業の最悪なリーダーだったんだ

 

今、理想とするのは

それぞれの意思を尊重できる、互いに信頼し合える関係性

互いに自由に発言し合って、上とか下とかでなく平等に対等な立場で、現状を創り上げていける関係性

 

それはきっと自身と身体の関係性だけの話ではなく、全てに於いてフラクタルに相似しているのだと思う

この仕組みに気がつくとき、エネルギーの循環や流れの方向が変わってゆくのだと思う

 

愛と感謝

 

愛と感謝は

意識して無理矢理持つものではない

他人に言われて持たされるものでもない

方程式のように決まった形式があるわけでないし

なければ駄目という決まりがある訳でもない

ないよりはあった方がいいけれど、学校で教えられ指導され身につけるような類のものではないと、私は思っている

 

愛と感謝は

特に意識しなくても勝手に湧いてくるもの

自然と溢れ出してくるもの

誰かに見せる為のパフォーマンスではなく

自分の中に生まれた分身のようなもの

その分身達は優しさの火種となって、自分や相手の心に光を照らし温める

 

愛と感謝は

連鎖し共振し拡散してゆく

人々の心の中をリレーして、世界全体、宇宙全体に拡がってゆき、そして循環する

 

自分の発した愛と感謝はやがて自分に帰ってくる

何倍、何十倍もの大きさになって帰ってくる

 

それは喜びと癒しのエネルギー

それは幸福と安らぎのエネルギー

 

これが愛と感謝のカラク